協同組合唐人町プラザ甘棠館
「唐人町西地区再開発ビル」の建設されたこの場所は、かつて亀井南冥が西学問所・甘棠館(かんとうかん)を開いたところです。
ここから青雲の志を持った人達が数多く世に送り出されました。
この地にちなみ、快適な住空間と商業機能の融合を目的に、広場を中心とした「唐人町プラザ・甘棠館」が建設されました。
二階に地域コミュニティの核となる会議場施設を設置し、商店街の集客力の向上と来街者の滞留時間の延長を目指し、平成13年4月より正式にオープンしました。
「唐人町プラザ・甘棠館」は、幾つもの新しい試みを歴史的な香に包んで、地域社会に提案しています。
西学問所 甘棠館
1784年七代藩主黒田治之により、東(修猷館)西(甘棠館)二つの学問所が同時に開校され、その一つの西学問所が甘棠館と呼ばれ、唐人町の南冥の屋敷に隣接するこの地に校舎が建てられました。
市井の儒者亀井南冥を登用して館長に任じ、徂徠学派(学は小なる道徳を捨てても、大なる経世済民に学でなくてはならない)の実学を広く教授した。
甘棠館館長となった年、志賀島で発見された金印に対する藩内の偽物説、鋳つぶし論に、反論、「金印弁」を著して金印を保護した。
【亀井南冥】(1743~1814)
儒学者で医師。南冥は号。早良郡姪浜村出生。
14才で徂徠学派の禅僧大潮に入門、漢詩文を学ぶ。
20才で上方遊学、永富独嘯庵につき医学を修める。
1764年唐人町で南冥堂を開き儒学を講じた。
甘棠館の結末
開校の年に志賀島から発見された金印に対し、これを重要な文化遺産だと認定したのは南冥が最初の人で、古学派の教養に基ずく発言であった。 さらに南冥は地元で"儒侠"と呼ばれた実践的任侠肌で、社会に対し積極的に働きかけたが、それが逆に当局から忌まれた。 太宰府政庁跡その他に記念碑を建てようとしたが、当局の反対で実現し得なかった。 西学問所は自由な気風をモットーに人気は圧倒的で、南冥が1790(寛政2)年の"寛政異学の禁"の余波が波及したのか1792年南冥は甘棠館館長の座を追われ、さらに7年後甘棠館焼失すると、廃校になり、同時に朱子学派の藩校東学問所修猷館に合併された。
西学問所・甘棠館跡
西公園の坂を下りた所から右折して五分ほどの黒門川通りを渡ると唐人町に出る。 日明貿易が始まると博多がその中心地として船舶の往来も繁く、東の箱崎に明人の居留地である大唐街が生まれた。 17世紀初期、福岡城の築城に伴って城下町を形成するとき黒門の外に唐人町を置いた。 火災にあった箱崎の大唐街をここに移転させたともいわれている。 黒門川通りに沿って南へ数分歩くと当仁小学校がある。 明治の学制によって作られた小学校で市内でも古い学校で校名の由来は「仁に当たりては師にも譲らず」からとったものである。 "唐人"の語呂を論語に求めたものである。 当仁小学校の南側に沿って西へ100mほど進むと、右手の駐車場の脇にひっそりと西学問所甘棠館跡の案内板が立っている 1784(天明4)年に設立された福岡藩の藩校跡である。 亀井一門の墓所は国道202号線を西へ10分ほど行った今川橋の手前の浄満寺にある。
西学問所の碑
西学問所跡の案内板がある所は、 甘棠館が建っていた所でなく、実際は道をはさんだ向かい側一帯に甘棠館は建っていた。 現在は西学問所跡の碑を実際の場所に戻す計画もある。
[甘*棠*之愛]かんとうのあい「甘棠之恵、甘棠之詠」=「甘棠之愛」
*よい政治を行う人に対する尊敬と信愛の情の深いこと。 *周の召公の善政に感じて召公の休んだ甘棠の木を大切にした故事。 [詩・召南]
甘棠は果樹の名
かりん(花梨)、ずみ(棠梨)の異名。
バラ科の落葉高木。
果実は小球形で赤又は黄色に熟し甘酸っぱい。
[甘棠の木の名]からなし。あかりんごの古名。かりん(花梨)の異名。
「甘棠の木」は、カランドパーク建物の西側「唐人ベーカリーポエム本店」横に2本植えられていて毎年かわいらしい花を咲かせています。
甘棠館の歴史
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